東海道筋に並んだ全国屈指の規模の近世城郭
加藤 理文(日本城郭協会理事)
江戸時代、尾張・三河両国には、藩主が居城を持つことを認められていた城が、9城存在していた。しかし、明治維新後の廃城令や都市化の波によって、多くが失われ、現存する天守は犬山城のみとなり、櫓や城門も名古屋城に残るだけとなってしまった。
「尾張名古屋は城で持つ」と言われた県だけに、古くから城への関心も高く、昭和29年(1954)の産業文化大博覧会開催にあわせて、吉田城鉄櫓が模擬復元された。続いて、同33年に田原城二の丸隅櫓が模擬復元、翌34年には戦災で焼失した名古屋城大小天守が外観復元され、同年に岡崎城天守も復興された。平成5年(1993)岡崎公園の入口に模擬の大手門が、翌6年に田原城の桜門がいずれもRC造りで建てられている。
平成8年になると、西尾城において本丸丑寅櫓と鍮石門が県内初の木造で再建。木造再建は本物志向の波に乗って広がり、同22年には岡崎城二の丸東隅櫓が、同21年より足掛け九年の歳月を経て、同30年に戦災で焼失した名古屋城本丸御殿が完成を見ている。御殿の完全復元は、我が国初の試みであった。令和2年(2020)になると西尾城の二の丸丑寅櫓と土塀が復元。そして、全国からも非常に注目を集める名古屋城大小天守の木造再建が控えている。ここでは、別稿に詳しい名古屋城と犬山城以外の復元された近世城郭について紹介したい。
徳川家康生誕の地として名高い岡崎城は、東西約1.5キロメートル、南北約1キロメートル と往時は広大な規模を誇っていた。外堀として利用していた菅生川には船着場が設けられ「5万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と江戸小唄にその繁栄が謡われる程であった。一般的に外様大名の大城郭でさえ0.5キロメートル四方程の規模が普通だった世に、実にその5倍程の規模を持つ城だったのである。岡崎城以上の規模を持つ城は、江戸城、姫路城、熊本城ぐらいでしかない。この城をここまで大きくしたのは、豊臣秀吉配下の田中吉政で、南を流れる菅生川を利用しその東・北・西の外周に、田中堀と後に呼ばれる惣構の堀と土塁を築き上げると共に、本格的な城下町整備を実施した。吉政は、東海道を城下町の中心を通るように引き入れ、城の守りを固めるために「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれる鉤の手状の道に整備し、併せて天守以外の二重櫓を17棟も建てている。5万石の譜代大名の城には、二重櫓は2~3基というのが標準であったことからも、岡崎城の異常な規模が判明しよう。
この岡崎城と並んで巨大な城だったのが15万石を領した池田輝政の居城・吉田城だ。外堀に囲まれた範囲は、東西1.4キロメートル、南北約0.7キロメートルもあり、岡崎城に次ぐ規模を誇っていた。近年、本丸を中心に発掘調査が実施され、かつての姿が判明してきた。中でも、本丸北西隅の鉄櫓台の石垣は、池田時代に築かれたことが確実な石垣で、その高さは約12.7メートルで織豊時代の石垣としては東海地方屈指の高さを誇っている。また、南多門の石垣も高さも約12.6メートルであった。城は豊川に面しているため、川手櫓と呼ばれる櫓があり、船で城内に入るための水門の石垣も残る。また市街地の城で、これ程良好な形で土塁が残されているのも珍しい。高さ約4メートルで、土塁上には、土塀の基礎となる石材等も一部に残り、これまた貴重な遺構となっている。
西尾城は、平成8年(1996)に、本丸丑寅三重櫓、二の丸鍮石門が木造で復元され、同26年には将来的な天守再建を考慮し、天守台が築き直された。次いで、令和2年(2020)、二の丸丑寅櫓と土塀も木造復元された。この土塀は二ヶ所で屏風折れを持つ特異な塀で、復元事例は非常に珍しい。屏風折れの土塀は、横矢を懸けるためと言われるが、折れを持たせることで強度を増すねらいを併せ持っていたと考えられる。
愛知県の城と言えば、犬山城・名古屋城に目が行きがちだが、実は全国でも十指に入る巨大な岡崎城・吉田城が、江戸期を通じ存在し続けたのである。
監修・文
加藤 理文
日本城郭協会理事
静岡県生まれ。文学博士。主な著書に「織田信長の城」「知る・見る・歩く! 江戸城」「よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書」「戦国の山城を極める 厳選22城」など多数。