美濃路は、信長死後に清須城主となった織田信雄(信長二男*)が、清須から美濃方面へ至る道を改修したのが始まりといわれる。
さらに信雄の後、城主となった豊臣秀次(秀吉甥)が伝馬制を敷き、清須、墨俣、大垣が宿駅となっていた。清須は室町時代後期以降尾張の中心となっていたが、慶長15年(1610)の清須越で町は一時寂れた。
しかし、美濃路が整備され新たに宿場が置かれると、町はにぎわいを取り戻した。清須宿本陣は大名の参勤、朝鮮通信使などの休泊所となり美濃路の中でも最も豪壮な建物だった。
*名の読みは「のぶかつ」、「のぶお」の2つの説がある。