土の城の到達点古宮城と、石の城の始発点大給城

中井 均(滋賀県立大学名誉教授)

新城市の作手高原には古宮城、亀山城、文殊山城、塞之神城、川尻城、石橋城などの城跡が集中して分布している。なかでも古宮城は近年中世山城の聖地として注目される城跡である。

平野にぽつんと位置する小丘陵をまるごと城として築いている。城の構造は巨大な堀切で小丘陵を二分し、東側に土塁を巡らせた主郭を配置している。その虎口は両袖に土塁を設ける桝形となっている。西側には丸い曲輪が伴う。この曲輪の周囲にも土塁が巡るとともに横堀が巡らされており、丸馬出として構えられたことがわかる。

さらに山麓に至るまで土塁を巡らせた曲輪が複雑に構えられており、山麓を全周する横堀も巡らされている。

こうした高度に発達した縄張りは戦国時代後半の築城を示している。唯一の史料として元亀4年(1573)に武田信玄が長篠在陣中に作手で普請をしたと「当代記」に記されており、それが古宮城ではないかと考えられている。

幸か不幸か古宮城に関する史料はこれしか残されていない。そのため縄張りと呼ばれる城の構造からの分析が重要となる。古宮城はこれだけの特徴を有するだけに推理するにはもってこいの城である。

丸馬出を備えた縄張りは典型的な武田氏の築城技術で、元亀4年の武田信玄による作手普請こそが古宮城であるとされた。
ところが丸馬出を構える武田氏の城では山城全域を取り囲むような山麓の横堀は認められない。古宮城の大きな特徴であり、その評価を考えなくてはならない。さらに近年では丸馬出も武田氏だけではなく、徳川家康も用いていたことが明らかとなっている。

古宮城の築城は信玄によるものであることは否定できないが、横堀の存在から天正3年(1575)に武田氏が作手より撤退した後に境目守備のため徳川家康によって改修された可能性が高い。

このように古宮城の築城についての謎は解き明かされていない。縄張りからの推理はまだまだ続きそうである。

 

左から、古宮城 虎口(両袖型枡形虎口)(写真提供:新城市)、古宮城縄張図(作図:中井 均)

 

古宮城が土の城の到達点を示すのであれば、豊田市の市場城や大給城などでは石垣を用いた城が構えられている。なかでも大給城は岩盤を巧みに利用して曲輪を配置しており、虎口部分は石垣によって築かれている。圧巻は北側の谷筋に構えられた水の手と呼ばれる谷を堰き止めた石垣である。高さは5メートルを超える高石垣で、自然石を積み上げた野面積みによって築かれている。

従来大給城は長坂新左衛門の城を松平信光が攻略し、三男親忠に与え、さらに親忠は次男の乗元に譲ったと言われている。乗元は大給松平氏の祖となり、以後大給松平氏の居城となる。しかし大給松平氏時代の山城は山を切り盛りして築く土造りの城の時代である。ところが現存する大給城には石垣が用いられている。どうも現存する大給城の構築は松平氏時代ではなさそうである。周辺で石垣による改修が考えられるのは天正12年(1584)の羽柴秀吉対徳川家康・織田信雄の小牧長久手合戦である。長期の対峙戦となった合戦に乗じて家康が石垣造りの城に改修したのではないだろうか。

市場城は足助鈴木氏の一族鱸氏の居城と言われているが、ここでも石垣が多用されており、やはり天正後半に家康によって改修されたと見られる。

このように大給城や市場城も石垣の存在より知られざる歴史が秘められているようである。

愛知県内には1322ヶ所もの城跡が確認されている。その大半は戦国時代の城である。山城では曲輪、堀切、土塁などの遺構が山中に見事に残されている。藪漕ぎをしながら山城を築いた戦国人の知恵と工夫を探る城歩きはやめられない。

 

左から、大給城主郭石碑、大給城 石垣、大給城 石垣

 

 

監修・文

中井 均

滋賀県立大学名誉教授

1955年大阪府生まれ。龍谷大学文学部史学科卒業。日本城郭協会評議員。主な著書に「織田・豊臣城郭の構造と展開 上」、「中世城館の実像」、「信長と家臣団の城」ほか多数。

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