熱田宿は、江戸日本橋から数えて41番目の宿場町。
熱田神宮の門前町でもあったことから「宮宿」とも呼ばれた。熱田宿は名古屋城下に至る美濃路の分岐点であり、桑名まで海路七里の日和待ちの大名や旅人が宿泊したため東海道随一の規模を誇った。
天保14年(1843)の記録では本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒のほか、尾張藩の浜御殿や奉行所が立ち並んだ。戦災と戦後復興、道路敷設により東海道や町は分断された。現在、かつての船着場跡に常夜燈が復元され、戦禍を免れた旅籠屋建物(*)が往時の名残をとどめている。
*丹羽家住宅は、脇本陣格の旅籠屋だった。